第三章 ジェイムズ経験論の発展
第二節 続・プラグマティズムについて
─根本的経験論との関連において─
前節においてジェイムズのプラグマティズム、特にその真理論について考察してきたわれわれはここでそれと根本的経験論との関係を考察しなければならないだろう。ペリーは一応根本的経験論をジェイムズ思想の「構築素材」とし、プラグマティズムを彼の思想の「方法ないしは技術」として区別しているもののまさしくそれらはジェイムズ思想といわれる一つのものについてのある見地からの見方、考え方をいっているにすぎないのである。
面白いことには、ジェイムズ自身はプラグマティズムと根本的経験論との関係づけの態度について必ずしも一貫させていなかった。まずジェイムズは『プラグマティズム』の序文の中で次のようにいっている。「私が理解しているようなプラグマティズムと私が最近『根本的経験論』として公けにした教説との間の論理的なつながりはない。根本的経験論はそれ自身の場にたっている。人はそれを完全に拒否しても、依然としてプラグマティストであってもよいのである」(1)と。
ところが『プラグマティズム』発刊後、特に真理論をめぐってジェイムズになげかけられたプラグマティズム批判に対して答えるという形で、その二年後に発刊された『真理の意味』の序文では次のようにのべるようになっている。「私は根本的経験論という名の哲学におけるもう一つの教説に関心をもっている。そして私にはプラグマティズムの真理論の確立は根本的経験論を普及させるきわめて重要な第一歩であるように思われるのである。」(2)ジェイムズがプラグマティズムに関するこの二つの著書の間においてなぜに異なる二つの見解を出したのか。ここでわれわれはそれらについてジェイムズの論述の中から推察し、吟味する必要があるだろう。
その前にわれわれはこの二つの思想がうぶ声をあげるときの状況を書きしるす必要があるだろう。一八九八年ジェイムズは『哲学的概念と実際的結果』と題する論文においてプラグマティズムの名づけ親パースを紹介した後、次のようにのべている。「われわれにとって、ある真理が何を意味するかの最後のテストは実にそれが命令しあるいは激励する行為である。しかしそれがその行為を激励するのは、それがまず、われわれから正にその行為をよび起こすべき、特殊な経験の変化を予告するからである。それで私はわれわれの目的のためにパースの原理をむしろこう言いあらわしたいと思う。即ちすべて哲学的命題の有効な意味は常に能動的であっても受動的であっても、われわれの将来の実際的経験における、ある特殊な結果に帰着させることができる。要点はその経験が能動的でなければならないという事実にあるよりも、むしろ特殊でなければならないという事実にある。」(3)
他方、根本的経験論の方はどうか。ジェイムズがはじめて『根本的経験論』という名を明示したのは、一八九七年、それまでの十論文をまとめて刊行された『信ずる意志』の序文においてであり、そこでは次のようにそれの態度をあきらかにしている。「私が『経験論』というのはそれが事実の事柄に関する最も確実な結論でさえも、将来の経験の過程の中にあっては変様しやすい仮説であるとみなすべく満足するからであり、そして私が『根本的』というのはそれが一元論の学説それ自身を一つの仮説としてとりあつかい、実証主義、不可知論あるいは科学的自然主義の名前のもとに流れている中途半端な経験論とは大いに違って、一元論をあらゆる経験が一致した何ものかとして独断的肯定しないからである。」(4)
この時ジェイムズは根本的経験論をどううけとめていたか。それはそれから後の一九〇四~五年に発表された八つの論文(ジェイムズの死後、『根本的経験論集』として刊行される)の内容とは違って、世界を多元的状態としてうけとる考え方をさしていた。「多元論が世界の永遠の形態であるという考えを自分の仮説としてうけとるものが私のいう根本的経験論である」(5)とジェイムズはいう。この根本的経験論の視点が後の一九〇九年に刊行される『多元的宇宙』となって開花しているのに対し『根本的経験論集』が主として認識論、意識論を中心に展開されているのは面白い現象である。
ところで相前後して宣言された根本的経験論とプラグマティズムは、その宣言の時期に突如としてあらわれたのではない。これら二つの教説はそれ以前においてすでにジェイムズの精神のなかで醸成されていたのである。まず根本的経験論の思想が主として認識論、意識論であるとするならば、われわれはジェイムズが十数年にわたって書いた大著『心理学原理』において意識の流れを積極的に評価することによって、又ロック、ヒューム等の伝統的心理学をとりあげ、精神の自動機械論及び精神-素材説、観念連合説をその批判の対象としたことによって、根本的経験論についての大組をすでにこしらえあげていたと判断できるであろう。否むしろ『心理学原理』を人間の真理に関する単なる記述としてでなく、すぐれた哲学書と理解するわれわれにとってそこに論述されている「意識」論は根本的経験論の本質を伝えているものであり、『根本的経験論集』はその整理であるともいえるであろう。
他方プラグマティズムの方はどうか。ジェイムズのプラグマティズムが確定するに当り影響を与えたといわれているのは、パースの『信念の固定化』(1887)及び『いかにしてわれわれの観念を明晰にするか』(1878)なる論文である。これらの論文は、ジェイムズやC・ライト、O・W・ホームズ、F・F・アボット、それにパース等を会員とする「形而上学クラブ」で発表されている。この「形而上学クラブ」は一八六〇年代につくられ、パースが中心になっていたらしく、従って形而上学的論争を解消するにはどうすればよいか等が論議の中心となったきわめて皮肉な名を冠するクラブであった。ジェイムズも又彼の性格からこのクラブにおける主役であったことは間違いなく、パースとともにいわゆる事物のプラグマティックなとりあつかい方についての考えを固めていったものと考えられる。それはジェイムズが『心理学原理』を書きはじめる頃と平行しておこっており、ここでもプラグマティズムと根本的経験論がジェイムズの精神において決して融和せざる性質をもっていないことが判明されるのである。(一)
さて、ジェイムズが『プラグマティズム』の中でそれが『根本的経験論』と論理的なつながりはないといったのはなぜか。一つにはそれが哲学的に全く異なるカテゴリーに属しているからともいえる。即ちプラグマティズムは真理論ないしは方法論であり、根本的経験論は実在(それはジェイムズにとっての実在を意味するとしても)論であるという考え方である。その意味ではジェイムズは哲学の論理的区別に一応の注意を払っていたといわれよう。
かかる観点にたてば根本的経験論は実在とは何かを明確にする教説であり、プラグマティズムは「事物をとりあつかう方法」及びそこから導出される限りでの真理論である。しかしながらプラグマティズムと根本的経験論には矛盾的関係はない。なぜならば両者とも思考の対象となっているのは、直接的具体的経験であり、従って両者は常に経験の特殊的事実に目をむけているからである。
それではそのことがいかにしてジェイムズのいうような「プラグマティズムの真理論の確立は根本的経験論を普及させるきわめて重要な第一歩である」という考えを導きだすのか。われわれは第二章、第二節において根本的経験論の三つの中心思想、即ちそれの公準、事実の叙述及び一般的結論を検討した。そこでは経験の概念が伝統的な経験のそれと異なっていることが強調されるなかで、われわれが語りうべき論議の手段であるところの観念が決して精神のアプリオリズムによって導出されえない点、いいかえればわれわれのいかなる対象もそれ自身経験として現象するがままのもの以外のなにものでもない点が示唆されていた。
そこからわれわれはジェイムズ経験論の特徴を次のようにいいなおすこともできるだろう。ジェイムズは観念がどこから発生してくるか、即ち観念の起源をさぐることによって観念をあきらかにしようという考え方に反対していたのである、と。なぜならばなるほどかかる考え方において観念が経験から導きだされるという経験論的な考えはあるにしても、その経験自体は、決して、ありのままの経験ではなく、具体的経験から抽象された象徴でしかないからである。観念の起源をさぐるということは、その観念がいったいなんであるかを最終的にきめつけ、その権威づけをしようということに他ならない。そしてそれ故に過去の方に目をむけることによって、そこからえられる静的な状態を観念の本質とみなす作業にすぎない。だがそれはわれわれの精神が勝手にきめつけたものであり、もっとつきつめればわれわれの精神それ自身の所産であって経験そのものとは関係なくあるのである。従って観念の起源の考察は必ずしも直接的、具体的経験と結びつくとは限らない。直接的、具体的経験から離れた行為であるといわれうるのである。
それではわれわれは観念をどのようなものとしてうけとらねばならないのか。われわれは直接的、具体的経験に関与するということは、われわれの認識において映じられる心像としての観念がなんらかの形で特殊的な事実、いいかえればわれわれ自身の関心が直接的にむけられたもの、をさし示しているの意である。かかる観念はたえず一つの方向をもっており、それ故にわれわれが観念のみについて考察する場合に、われわれはその観念が導いていく場所に関心をもつようにならざるをえないのである。
J・E・スミスがこの点を指摘し、「彼〔ジェイムズ〕にとって観念とは未来の行為のための一つの統制及び一つの案内として行為することの規範的機能をもっている」(二)といっているのはその意味で正しい。スミスによればジェイムズは発生論的経験論者genetic empiricistではなく、規範的経験論者normative
empiricistなのであった。この見地にたってジェイムズは観念を、その原因に後戻りさせるのではなく、その結果にむけてすすめるべく、とらえようとするのである。
では観念の意味及び価値はどうとらえられるのか。前述の論理に従えば、それらはそのよってきたる場所についての機能ではなく、その至れる場所についての機能であるとしてとらえられるだろう。かかる見解は実はわれわれの対象であるとされるすべてのものが現実的に機能しているという点、即ち作用性をもっている点、を無視しては決してなりたたない。観念それ自体をそれの結果するところのものによってとらえ、あるいは観念の意味ないしは価値をその方向の終点において理解しようという態度は一つのもののとらえかたではある。しかしこのような態度は決して傍観者的態度ではなく、われわれ自らが経験の直接的具体的な状況内にあって、そのわれわれの生の発露と結びついたところの、特殊的な行為といわれるべきものの範疇にある事実の考慮なくしては成立しえないのである。即ち直接的具体的経験への関与は観念及び事物の意味するところがどういう結果になっているかをみることと直接的につながっているのである。
ここにおいてすでにあきらかにされている如く。根本的経験論における反アプリオリズムの立場の貫徹は必然的に現存する機能そのものに依拠せざるをえないのであり、又直接的具体的経験の場の中にたたなければそれの維持は不可能なのである。そして直接的具体的経験(ジェイムズによればそれは純粋経験の概念にまで発展する。)をとらえる最善の方法はそれの結果がなんであるかをみること以外にないのである。
これはあきらかにプラグマティズムの論理そのものではないか。プラグマティズムの真理論はこの考え方をさらに徹底している。プラグマティズムにとってある対象を知るということは必ずそれによってある特殊的結果に至らしめるある過程はわれわれにその効用性を認めさせるものであるが故に真であるといわれうるのである。この効用性はジェイムズにとっては真理の源でもあると同時に結果でもある。そしてこの効用性はわれわれの意志と結びついて特殊的結果のもつ意味をわれわれに内在的なものにする根拠を示す概念なのである。
かくてプラグマティズムの真理論は常に特殊的結果に目をむけようとすることによって真理を意志的に形成しようとする。いいかえれば真理の偏在性と普遍性を永久に拒絶しようとする。このことが根本的経験論の考えと普及させるのは、根本的経験論がいわんとしている実在、即ちわれわれの信念の存在根拠としての実在を積極的に支持しているからであり、プラグマティズムの真理論が単なる対象を実在へと誘導しているからである。
だがここにプラグマティズムと根本的経験論との相関関係がプラグマティズムを神秘の世界に誘いいれたとみられるふしがあるのは注意されるべきであろう。プラグマティズムは当初はあくまでも検証可能な経験の世界において通用する思考の方法であった。しかるに前章であきらかにされた根本的経験論の様々な論述から、根本的経験論は形而上学の領域にもその足をのばしていることが予示されている。それによればジェイムズは経験の連続性という考えから経験の連続体としての実在をはっきり想定しているようにみえる。かかる実在はなんら超経験的な実体としてあるのでない。例の包暈をともなった諸経験の総体が焦点的な自己を中心に存在しており、それ自体が実在的世界を構成しているのである。
この考えはわれわれに直接に知覚される世界を経験的対象とし、他のなんらの知的根拠を必要とすることなく実在的対象とするジェイムズの実在観に基づくものであるが、同時にここに信ずる意志の働きを認めることになれば、現在知覚されない世界が永久に直接的に知覚されないということには決してならないのであり、従ってそれはどこかで知覚されうるのであるという点、しかも現在知覚されている世界も、又将来どこかで知覚されうるであろう世界も、われわれの経験という目からみれば同一の連続体に属していなければならないという点が論理的矛盾なく考えられてくるのである。
どこかで知覚されうる世界との経験、即ち非知覚的経験は検証不可能な経験である。しかしかかる経験も又経験という実在性をもちうるのである。それはなぜなのか。ここで非知覚的経験も経験の連続体を構成する一つであるからという解答は根本的経験論の結論を再び根拠にしていることになろう。(実際にもそうであるにしても。)してみるとわれわれはジェイムズが必ずしも検証可能性の有無によって経験の実在性を導出していないという点に気づかねばならないだろう。それ故知覚的経験は検証可能的であるが故に実在的であるとか、あるいは非知覚的経験は検証不可能だから実在的でない(厳密にいうならば永久に実在的でない)といわれえないのである。
ここにジェイムズの意味する経験がすべてがすべて実験主義に依存しているのではなく、主意主義的傾向ないしは実在に関しては直接的感覚主義的な直感論にも基づいていることがあきらかにされている。かかる観点にたてば、いいかえればジェイムズの信ずる意志の考えを考慮にいれるならば、経験の実在性とは知覚的経験であろうと非知覚的経験であろうと、それらがわれわれの感情になんらかの変化を与え、且つそれによってわれわれに具体的行動をとらせているか否かにその有無が依存しているといえるだろう。従ってわれわれが検証不可能な世界、神秘の世界あるいは形而上学的世界にふみこもうとしていても、それ故に非知覚経験をしていようが、それらがわれわれに直接に訴えかけるなにかをもっているならば、かかる経験は実在的なものであるといわれざるをえないのである。かかる世界はそれがなんであるかをきめつけるようわれわれに要求していない。もしそれを信ずるならなんらかの影響をわれわれに与えるであろうところのものとして考えられているだけである。しかしジェイムズにとってはそれだけで十分なのであり、且つプラグマティズムの「実際的結果」を導くに十分なのである。
このことは根本的経験論の形而上学としての実在感がプラグマティズムの「実際的結果」の意味する範囲をより拡大させた結果ともいえる。(三)なぜならば根本的経験論の結論にあるところの、直観に基づいているともいえる実在の世界の認容はパ-スの如きプラグマティズムの守則でもってしては説明がつかないからである。実際のところ根本的経験論における実在の考えそれ自体がすでに知的な手がかりによる解明の不可能なものとしてある。それは直観としての実在についてのべているのであり、従ってその実在をある対象として客体化することのそれ自体不可能な考えを含んでいるのであるから、もし仮にかかる実在を問題にするというのなら、全くわれわれの感情の中にある動きに注目しなければならないのである。
もしかかる実在がわれわれの感情になんら訴えかけなかったなら、それはないものとしてみなされるであろうし、従って根本的経験論の結論も又正しいといわれるわけにはいかないだろう。ジェイムズにとって根本的経験論の結論も又一つの仮説にすぎないけれども、しかしこの仮説はわれわれのなかに生きているのである。この事実はごく普通のできごと、たとえば「祈り」にもみられるであろう。
第一章でのべられた如く、祈りはわれわれが祈らざるをえないがために祈るが故に認められるのであり、その限りにおいて祈りの対象はわれわれの心の中に働きかけているとみなされなければならない。祈りの対象がわれわれに不可解、不可測の故をもって、又それ故に神秘である故をもってそれは否定されるものではない。それはわれわれの内的なものと一体となっている限りにおいて確かに実在としてあるのである。そしてジェイムズによればかかる事実はプラグマティズムの「実際的結果」のなかに当然いれられるべきであったのである。
だがわれわれはジェイムズのいう「プラグマティズムの真理論の確立は根本的経験論を普及させるきわめて重要な第一歩である」というテーゼも、又逆に根本的経験論の形而上学的な実在感がプラグマティズムの守則の適用範囲を検証不可能な対象にまで広げるに至っているというテーゼもジェイムズの立場からすればどうでもいいことであるといえるのではなかろうか。
プラグマティズムと根本的経験論はどちらがその原因であり、又結果であるともいいえないものであり、結局のところは、両者は単なる仮説でしかないといえるのかもしれないのである。両者はジェイムズの心の中にあってはおたがいが影響しあっているのであり、又関係しあって存在している仮説なのである。なぜにそういわれうるのであるか。すでにあきらかな如く、(第二章・第五節で)ジェイムズはわれわれの信念に提示されるものすべてを仮説とよび、そしてその仮説の生死の状態を重視するのであるが、その基準はあきらかにわれわれの側にある態度によらなければならなかった。即ち「仮説における死、及び生は内的な特性ではなく、個人的思考者に対する関係で」(6)なければならなかった。
そのことは何を意味するのであるか。あきらかにジェイムズはそれを究極において個人の行動意志に関係のあるものとして考えている。それはまさに生の問題であり、道徳の問題に還元せられている。従ってプラグマティズムも根本的経験論もジェイムズにとっては生の問題であり、道徳の問題であり、それらに還元されてとらえなおされることによってはじめて両者の密接な関係が具体的に説明せられるのである。
これらの考え方をさしてわれわれはジェイムズのプラグマティズムであると一般的に評価できないこともない。否むしろあらゆる事象をすべて生の問題、道徳の問題としてとらえなおすのが真の意味でのプラグマティズムなのであって、単なる方法論としてのプラグマティズムは片肺飛行をつづける未完成品でしかないのである。ジェイムズのプラグマティズムは根本的経験論と密接な関係をもつが故にまさに「哲学者の上に一種の新しい夜明けがはじまろ」(7)うとし、徹底した主意主義に基づく「哲学」が形成される可能性が感じられるのである。
それはパースのいうようにプラグマティズムの自殺でも何でもなく、人間の持っている本源的な要求をみたしているという意味において、われわれの心を鼓舞する「人間学」としてのプラグマティズムになっていると評価されてもよいのではなかろうか。そのことは何を意味しているかというと、たしかにジェイムズのプラグマティズムは日常において単なる事なかれ主義に基づいて実際的結果という言葉をたくみに弄した詭弁と妥協的態度をもてあそんでいるようにみえるが、その根底にあるのは激しい人間的欲求の哲学的充足を意図しているということである。プラグマティズムが仲介者であり調停者であるとジェイムズがいう場合、その真価がどこにおいて最も発揮されるかというと、人間が理念としてもつ至高の存在あるいは人間においては不可解であるが、しかし人間がそれに対してなにかを求めようとする存在に対してなのである。調和が問題になるというのなら、むしろかかる存在と人間の現存との調和が積極的に主張されるべきなのであって、われわれはそこにジェイムズのプラグマティズムの意義をみるべきなのである。このよい事例についてわれわれは次の二節において具体的に示されるであろう。
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